第三章
ウラン・ウデ。
アジアンロシア。
住もうかなあ。
1.国境,モンゴルおばさん全蒸発 その後ずーっと警戒されながら列車はいよいよモンゴル国境へ。車掌が配ってくれたイミグレーションカードは中国語とロシア語で書かれているためとても微妙にわかりにくい。一人一枚。おばさん達に身振りと英語とロシア語で聞きながらまあそれは書いて、いよいよ出国だ。乗り込んできた係員は今度は中年のおじさんだった。あやしい輸送おばさん達はあまり臆することなく親しげに彼と会話し、おじさんはむしろでれーっとなってて、扱いはむしろこっちの方が厳しかった(ちなみに5ドルとかは要求されなかった)。まあ現金は確認されないしビザはんこさえ押してあればパスポートを渡してそのまま待ってればよいのだが。 |
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2. ウラン・ウデ到着 夜が明けてくると、列車の周囲の風景はもうシベリア鉄道のそれだった。なにしろちゃんと木が生えている。そして他に誰もいない車両で、車掌さんと一生懸命に会話を試み(車掌さんも一生懸命)たりしている内にウラン・ウデに近づいてきた。そして到着。車掌さんと挨拶して下車すると、とにかくむっちゃさむい。 |
3. ウラン・ウデうろつき雰囲気 ウラン・ウデの町としての位置付けは多分ブリヤートとかヤクートとかモンゴルの人たちが多く住む領域をロシア政府が統轄する中心地、といったものなのだなあ、と至る所で感じる。人を見ると分かる。比較的アジアな顔つきの人々が多く、特にお店屋さんには多いのだが、街中を歩く警察屋さんなど権力系はロシア人が多いようだ。町の全体的な雰囲気は、まあ郊外の中くらいの町、というか日本で言うなら古川市くらいな規模なのだが、道行く人たちは黙々と生活を頑張っている。キオスクなどで観察する限り、物価は去年と比較してそれほど変わっていない。また、去年は賄賂としてめちゃくちゃ有効だったマルボロが最近ひどく人気を下げ、そのかわり日本製のマイルドセブンが一箱35pとか言う超高級品になっていて失敗した(今回もまるまる一カートン)。 |
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ウラン・ウデ市の中央。
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セレンゲ川は凍結中。一部溶けて危なそうでも |
滞在したホテル。バイカル(なんでもバイカルだよなほんと)。
トイレでも見ますか? |
4.何とか地学研究所 ホテルまで案内してくれたインツーリストのおばさんがこの町で予定があるのか聞いてきた。何にもないと応えるとそれが結構珍しいらしい。まあそりゃそうだ。社会的罪悪なくらいに日本人旅行者がこのような途中下車的な町に立ち寄ることは滅多にないか、又は何か目的があってのことだ。終戦時にウラン・ウデは主要な異国の丘ターミナルだったので、日本人墓地に墓参りに時々訪れるグループがあるらしい。ともかく彼女が5ドルで町を案内してくれるというので安いので早速お願いしてぐるぐる回ってもらった。 |
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押し掛け同然だったが標本館を見せてくれた。
左が職員の何とかさんで中央がインツーリストの何とかさん どっちもとてもいい人なのに名前がもはや出てこない。。。 |
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チャロイト、という鉱物。信じがたい色あいをしている。
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5.何の変哲もない町ほどいいのかも いろいろ活動して観察して回ったように書いてあるが、我ながら、ウラン・ウデでは呆れるほどのんびりしていた。朝ゆっくり起きてゆっくりの朝食をカフェでとって、今日ーはそだな、じゃあこの何とか博物館、位に予定を立てて、のんびり歩きながら目的を果たして昼食取って買い物してホテルに帰ると一日が終わる〜位で、なんともリラックスした4日間だった。実際観光を意識した町でもなく、人々の日常がほとんど全てのような所なので、それでも十分見て回れるのだ。それでいて町の人たちも気のせいか去年観察したよその町よりもほのぼのと生活しているように見えた。例によって無言なのだが、何というか険がないのだ。また例えばどこのお店の人も相変わらず言ってることは聞き取れないが比較的愛想が良い。感覚的に一言で表すならば、とけ込めそうな気がした。働かないで見物して回ってる自分が申し訳なくなってさえくるし。。。 最後の夜、うんと遅い列車でイルクーツクへ向かう際も、インツーリストのきれいなおねいさんがいやな顔ひとつせず送ってくれた。いい町だったなあ。 |
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町の真ん中のオベリスク。一番右の行、不思議な
日本語で共産がどうのこうの書いてある(謎)。 |